こういった質問はこの仕事をしている以上、必ずあります。想像はつくかもしれませんが、こうした質問をしてくる子は総じて「勉強が嫌い」です。勉強に価値を見出せていないので、気乗りもせず、成果も上がりません。
まして、AIの進歩が目覚ましい現代において、勉強することの意味がますます分かりにくくなっています。
どんなに鍛えても人間の計算力はコンピュータには及びません。
英語をはじめとする外国語の翻訳もずいぶんコンピュータはスムーズに行うことが出来るようになってきています。
作文や文章だって、今やAIを使えばあらかた作成できてしまいます。
どんなに博識な人の「知識量」だって、インターネットで世界につながれる今、それ以上の知識をみんなが携帯しており、「知識があるだけ」では価値を見出しづらくなっているのでしょう。
「考える」ことが出来るのが「人間の強み」。これまではそう考えられてきましたが、「考える」ってかなりエネルギーを使います。一言でいうと「面倒くさい」。だから「考える」のも「時短やタイパ」という名のもとに放棄され、AI化されていく。
そのうち、企業のトップや、政治家たちがAIになる日だって来るかも知れません。人間は考えることの煩わしさから解放され、ただAIに指示されたとおりに動けば良いことになるのかも知れません。
しかし、AIがどんなに進歩しても、いかにたくさんの情報が手に入るようになったとしても、それを採用するかどうかの「判断」をするのは人間です。その「判断」には「責任」が伴います。
「正しい判断」をするためには、「相応の知識」と「論理的な思考能力」が必要なわけで、それらを養うにはやはり「勉強」が必要だと言う結論になります。そう「AIを正しく扱うためには、やはり人間自身が賢くなくてはならない」のです。
また、勉強が苦手だ、とか嫌いだになってしまっている子に多いのは、「勉強を他者との比較でしか、出来る・出来ないが判断できなくなっている」ケースです。
なぜ人と比較する必要があるのでしょう?
確かに学校のテストでは学年順位が出ますし、学力模試では偏差値が出て「他者との比較」で成績を判定されてしまうことになります。しかし、その成績が悪いからと言ってその子が勉強出来ないということにはなりません。
勉強は「長距離走」に似ていると私は考えています。走るのが速い子はゴールするのも早くてみんなに「称賛」されます。走るのが遅い子は時間はかかりますが、頑張って走り続ければ、いずれ同じゴールにたどりつきます。ゴールにたどり着くまでの速さが違うだけなのに、周囲の評価があまりにも異なってしまうので、「自分は出来ない」と勘違いをしてしまうんですね。実はちゃんとゴールにたどり着いているのに。
私が勿体ないと思うのは、その「勘違い」のせいで、走るのをあきらめ、本当はゴールする力があるのに走るのを辞めてしまうケースが多々あることです。
「長距離走」で最後にゴールする選手を見るとき、みなさんは「惨めなやつ」「ビリで恥ずかしいヤツ」だと思いますか?それとも「最後まで走りぬいた姿」に称賛をおくりたくなりますか?私は、断然、後者です。
もう一度言います。他者との比較で走るのを諦める、嫌になっているきみ。勿体ないぞ。どんなに遅くても、走り続ければゴールは見える。走り続ける人の姿や努力は、必ず誰かが見ています。評価や成果は「後になってついてくるもの」と考え、初めから結果を求めないようにしましょう。
学問において、本来、人との比較に意味はありません。成長を比べる相手は「自分自身」でなければなりません。「今日の自分と、昨日の自分」「今日の自分と、明日の自分」。一歩ずつでもいいのです。勝手な勘違いで、歩みを止めるな!前へ!!